「Web進化論」と「国家の品格」をまとめて読んで得られたもの

たまたまだけど、話題の2冊を一時に読んだ。Web進化論の梅田さんには、以前から非常な共感を持っていたのだけど、それを差し引いても随分と読後感が違った。

Web進化論曰く、

日本だけでも数千万、世界全体で見れば数億から10億以上という不特定多数の厖大さ、それゆえの「数の論理」、それらを集約するためのテクノロジーの進化の加速はコスト低下、そういう諸々の要員を冷静に見つめ、「不特定多数の集約」という新しい「力の芽」の成長を擬視し、その社会的な意味を、私たちは考えていかなければならないのだ。
不特定多数無限大の良質な部分にテクノロジーを組み合わせることで、その混沌をいい方向に変えていけるはずという思想を、この「力の芽」は内包する。そしてその思想は、特に若い世代の共感をグローバルに集めている。思想の精神的支柱になっているのは、オプティズムと果敢な行動主義である。

国家の品格曰く、

もちろん国民が時代とともに成熟していくなら問題はありません。昔の話は単なるエピソードとして片付けることができます。しかし、冷徹なる事実をいってしまうと、「国民は永遠に成熟しない」のです。
このような事実をきちんと伝えないといけません。過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、「成熟した判断ができる国民」ちう民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない。民主主義はどうしても大きな修正を加える必要があります。

僕は「Wisdom of Crowds」VS.「衆寓」の問題に絞って考えたのだけど、エリート以外の国民は行動するな、という藤原さんの考えには違和感を感じる。「国民は永遠に成熟しない」などと何故言い切れるのか。藤原さんにとっては真実かもしれないけど、これを事実とは言えないでしょ。数多の人を「国民」なり「大衆」とひとまとめに単純化する考え方は危険だ。
一方、梅田さんは、人々をひとまとめに考えてはいない。あくまで「個」の集合として扱っている。僕も、不特定多数の集約の結果はのっぺりとした均質なものではなくて、もっとでこぼこで多次元で、異質な小さな世界の集まりであるのがより本質に近いと考える。均質でない玉石のぶつかり合いから生じる摩擦熱から生まれる「予測不可能であるという面白さ」は、ネット世界だけでなく、プロジェクトチームのような現実世界でも大切なことだと思う。


このような対比をこの2冊から得られるとは思わなかった。本をまとめ読みするのもいいね。